不公平

数年前、ある人からのひどい裏切りにあった。

そのからみで友人も失い、わたしはおかしくなった。

それから何年も経ったがいまだに傷は癒えず、原因となった人間、わたしを陥れた人間に対して、わたし以上の苦しみを存分に味わって、死ぬに死にきれず、ずっともがき苦しめばいいと願っている。

どうして自分ばかりが。
あいつらは元気いっぱいにやりたい放題生きてるのに。
こっちは死にそうだよ。毎日毎日、薬漬けだよ。
これまでに費やした時間と健康を返していただきたい。

なにより嫌なのは、あいつマジ死ねェ〜、とおもっていることより、いまだにこんなふうに恨んでいること。それはもはや執念、妄執だ。

ひとはかんたんに「そんな昔のことなんてさっさと忘れてしまえばいいのに」というが、かんたんに忘れられればこんな苦労はしないのである。

苦しんでいる人間がいる一方で、そんなことはとっくに忘れ、平然と生きている人間がいる。他人のこころをズタズタになるまで踏みにじったことなど、彼らは気にも留めない。

世の中、不公平だなぁとつくづくおもう。

殺されかけた話

今年の6月まで働いていたんだけど、病気のせいか頭が回らずにちっとも仕事がはかどらず、やべーよやべーよと思っているうちに、お前は向上心もないし、このままじゃ仕事も進められないし、ほかの従業員にも悪影響をおよぼすから辞めてくれる?、と言われ、そのころには上司がクッソ怖くてたまらなかったうつ状態に突入していたので、あっさり辞めた。

病気のことに関して、いろいろと取り計らいをしてくれたことには感謝している(こんな企業、日本にはほとんどないだろう)。

でも、なんだろな、これはわたし個人の問題なのかもしれないが、向上心がないとか、ほかの従業員に悪影響をおよぼすとか、ひどかったのが、プロジェクトを進めるにあたって他社とメーリングリストでやりとりするのだけど、その中で「手下」と書かれたのがかなりこたえた。ふつう、他社の人に自分とこの部下であっても、手下なんて書かないよね…。ただでさえ低い自尊心をさらに低めて踏みにじるには十分すぎた。

上司はとても優秀な人だったし、尊敬もしていたけれど、人間的にはキツイな〜とちょこちょこ感じていた節はあって、うつ状態に陥っていたわたしにとっては、脅威以外のなにものでもなかった。

そんなこんなで、ぐちゃぐちゃに弱ったハートをえぐる言葉に、マジで殺されかけた。

が、すでに社会的には死んだも同然で、もう働くのはこりごりだし(こんな思いは二度としたくない→働きたくないでござる!)、同業者がたくさんいるFacebookとかもうおそろしくて見てらんない。みんな仕事をきちんとできているのに、どうしてわたしはこんなふうになっちゃったんだろう…って絶望して死にたくなる。死んでるんだけど。

向上心だとか、勉強会だとか、いいんだよ、別にやりたきゃやればいいし、優秀な人はそんなこと考えずとも、しっかりと身につけていく努力はおり、実践している。

我先にと仕事や勉強に取り組むのが正義であり、それに沿わない人間は、ダメなやつ、使えないやつ、と烙印を押されて自然淘汰されていく。

残念なことに、取り残される人間はたくさんいる。

結果、わたしは淘汰されて、社会的に死んだ。

そういうことじゃない

ここ数ヶ月、ずっと吐き気が続いており、実際にリバースしたりすることも頻繁にあったので、近所のクリニックで胃カメラの検査を受けた

特に問題なし。

医師曰く、精神的なものじゃないですか?とのこと。

精神的なもの、で片付けられる。そりゃ内科的知見からしたらそうだろう。

だけど、どことなく「そういうことじゃなくて…」と思う。

医学って、もっと全体的に網羅して診れないものなんだろうか。

特に大学病院に行くと、科が細分化され、その分、専門的になっていることがわかる。それぞれの専門家がいていい。

でも、こっちの科ではわからないし対応できないから、あっちの科で診てもらって、というのはよくあって、そのわりには橋渡しがうまくいっていない場合が多い。

ただでさえ病院へ行くのすらキツイ時があるのに、あちこちたらい回しされ、待たされて、結局いつもの薬を出されるだけ、というのはもう飽きた。

患者がなぜ病院にくるのか。

痛いから、苦しいから、しんどいから。藁をもすがる思いなのです。

医師はただ検査や投薬をおこなうのではなく、「なぜこの患者は病院にきたのか」という根本的なことをもっと考えて治療にあたってほしい。ほんとつらすぎ。

めんどくさいこと

当初、新たなコミニュケーションツールとしてリリースされ、市場に受け入れられていったSNS


一方で、知らなくてもいいことを知ってしまう事故、そこから派生する炎上、インターネット上とはいえ人間関係を健全に保つのに苦労させられ、挙句の果てにはそれらに疲れ果ててそっとブラウザやアプリを閉じる。


こんな面倒なことを延々と続けている人たちにわたしは閉口する。

おつかれさま…。

こころのゆくえ

わたしは数年前からずっと病気を患っていて、それに振り回されてきました。今もそうです。

仕事ができず、人間関係もうまく築けない。
なんとかがんばろうとしても、できない。
はっぱをかけられてもピンと来ない。できない。焦るだけ。
ひどいことを言われたりされたりしても、反論できない。そんな気力がない。

社会的に落ちこぼれ、プライベートでも人と関わるとその人たちと自分を比較して落ち込むから人と会わない。友だちが減る。悪循環。

ふとした瞬間、でもきっと無意識的に、怒りと焦りを感じているのです。

なぜ、こんな病気になったのか、という怒り。
なぜ、こんなに長い間苦しまなければいけないのか、という怒り。
いつまでこんな状況が続くんだろう、という焦り。
いつ治るんだろう、という焦り。
どうしてわたしだけが、という怒り。
わたしってほんとうに面倒で馬鹿だな、という怒り。

世の中のすべてが鬱陶しくて、面倒くさくて、息苦しくて、なぜ生きてるのかわからない。
生きているのが、とてもつらい。
だけど死ぬのもいろいろ面倒だから、とりあえず生きるしかない。

数年前に父をがんで亡くしましたが、「生きたい」と切実に願う人が死んでしまうのに、どうして「生きるのめんどくさい…」と思っているわたしが生きているんだろう?と今でも思います。
できることなら、わたしのいのちをわけたい、と本気で思いました。

長い間、ずっと苦しんできて、ときにはうれしいことやたのしいこともあったけれども、こころの底にはべったりとした怒りや悲しみがこびりついて剥がれず、それらを帳消しにしてしまいます。

ある時、この病気の原因を作った人たちをわたしは許せなくて殺意すら覚えていることに気づき、あわててカンセリングを受けました。

もちろんほんとうに殺すわけがないし、そのくらいの分別はついていますが、カウンセラーさんは、それだけひどいことをされたんだから、それは「ごくごく自然な感情」で、思い悩むことはない、と言っていました。

「ごくごく自然な感情」すら、わたしは「自分ごと」とは思えなくなっている…。これは感情の欠落です。
苦しいことやつらいことから自分を守るために、感情を押し殺している。もうあんな思いをするのは嫌だから。相当こじらせた。ああ、めんどくさい。


出口が見えないトンネルを歩いて行くのは、ほんとうにつらいことです。

しかし、つらい、つらい、と誰かに訴えたところで、何になるわけでもなし。
仕方がないから、耐えていくしかないんだろうと思いつつも、それもやっぱりつらくて、なぜ耐えなきゃいけないのかわかりません。


誰かを恨んでも、自分を責めても、どこにもやり場がないこころのゆくえ。
ずっと同じところをぐるぐると回っている。
やれやれ…。